CIO LoungeMAGAZINE_2024spring
5/20

cross-subsiization、内部相互補助)だと、それ矢島 いる中で、最後はコミュニティとかエコシステムという共同のネットワークで社会課題を解決していくとおっしゃっておられたのはそういう背景があったからだと、今のお話を伺って、改めて納得しました。日米貿易摩擦とNTTデータの分社矢島 何年後ぐらいですか。またグループの中で、NTTデータがここまでビッグになっていくと当時から思っておられたでしょうか。山下様 化された3年後、昭和最後の年に分社しました。分社の経緯そのものが、経営的な観点ではなく、電電公社の民営化や回線開放に伴う民間企業との公正競争確保の観点や、当時大きな問題であった日米貿易摩擦の解消を目的とした政府調達の見直しなどを背景とした政治的な圧力を原動力としたものでした。このため、揺籃期の事業を育てるというより、如何に新会社の力を削ぐかを目的としたものでした。いわば、ライオンが子供を崖から落とすみたいな形の分社でした。当時、国産コンピューターを育成するという観点で、政府が買うコンピューターは国産に限られていました。通産省の監視のもと、その先兵を担っていたのが電電公社だったわけです。電電公社は国の機関ですから、電電公社が国のシステムを国産コンピューターを使って作るというのは、当然と言えば当然ですね。一方、アメリカから見ると、電話で上げた利益をコンピューター開発に投じるのはクロスサブ(が日本のコンピューターメーカー支援に繋がり、サービス面でも不公平だということです。結局、電話部門からコンピューター部門を切り離せと、まさにそれが分社化の本質でした。親子関係を切って分社し、NTTの仕事は一切持って行かせない、外販で生きていけと、支援は一切なしということで始まりました。20年間一度も黒字になっていない部門で、しかも山下さんがこれまでいろいろなところで講演されてNTTデータが誕生したのは、電電公社民営化の1988年ですね。1985年に電電公社が民営出向ではなく転籍で、もし会社が潰れても戻るところはありません。本当に退路を断たれたわけです。退路を断たれると人は変われる矢島 NTTデータの社長になられて一番ご苦労されたこと、今だから言える苦労話みたいなものがあればお願いします。山下様 そうですね、社長になったときに目指したのはグローバル化です。当時私が社長になった時、グローバルでの順位は15位前後だったと思います。社長を卒業するまでに何とかトップ5に入りたかったのですが、結果的には6位でした。グローバル化というのは二つの意味があります。「外に出ていくグローバル化」と「内なるグローバル化」です。グローバルで戦っているお客様にシステムを提供するためには、我々自身がグローバルで通用する競争力がないとだめだと思っていましたので、グローバル化には本当に力を入れました。自分たちの仕事のやり方そのものをグローバルにしなければだめだと言っていました。それと、組織にとってやはり人間の意識っていうのは本当に大きいと思いました。NTTに残るかNTTデータに行くかの希望を分社時に取りましたが、ほとんどの人は、赤字部門のまま一緒に動いたのです。ところが20年間赤字だったのに、分社した途端に初年度から黒字になったんですよ。これは驚きでしたね。同じ人間が同じ事業をやっていて、分社して、帰るところもなく、誰も助けてくれない。自分たちで食べて、自立していかなければならないとなったとたんに変わったのです。倒産してもNTTは引き取らない、当然資金援助もない、仕事も出さない。何と研究開発も使っては駄目と。徹底した絶縁状態で放り出されたんです。しかし、そこまで徹底的に退路を断たれると人間って本当に変わるもんだと心から思いました。矢島 やはり冒頭で山下さんが言われたように、電電公社に入社されてコンピューターで何かしたいというモチベーションや使命感、ITで日本を変えていきたいという方々が非常に多くおられたという印象ですね。山下様 そうですね、つらい商売で夜遅くまで働き、家にも帰れないときもありました。当初は黒字のあてもない会社でしたが、必死で頑張れるというのは、やはり好きこそものの上手なれだったんですね。矢島 と言われたときからすでに四半世紀が経ち、現在、日本はどこにいるのというような産業構造になっています。当時のNTTデータの方々は、お金が欲しいというより、自分たちが社会や企業をそして日本を変えていきたいという強い気持ち、モチベーションが本当に強かったんではないかと感じました。「コンピューターユーティリティー」を目指したい山下様 けです。また電電公社でコンピューター事業を始めた理由も、コンピューター通信は、第一の電報・電信、第二の電話に続く、第三の通信だという歴史的な位置づけでした。その中で我々のミッションは二つあり、日本のコンピューター産業の育成、そして、国民生活を豊かにするということでした。当時はコンピューターユーティリティーと言っていましたが、電気・ガス・水道と同様に、国民がコンピューターリソースをスイッチひとつで、あるいは電話からでもいつでも簡単に使える。要するにコンピューターを利用して、生活の豊かさと利便性を享受できるための仕組みを、あまねく安く広めるというのが我々のミッションでした。また、大企業と中小企業の格差は本当に大きくて、大企業はコンピューターを自前で調達できますが、中小企業はなかなか自前で調達できない。そういう中小企業に対して今では懐かしい「タイムシェアリング」で安価でコンピューターを使ってもらうということでした。そもそも電電公社のミッションは、民間と戦うためにやるわけではなく、民間では手が及ばないようなところを公共的な観点でやるという思想で、社会正義みたいなことを思ってやっていたわけです。矢島 各企業でクローズしないといけない環境を作りすぎてきたよIT、ICTの話ですが、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」そういう公共的な仕事をしたいという人が多いわ山下さんのお話をお伺いしていて、ある時から、日本はd4Toru Yamashita Takao Yajima

元のページ  ../index.html#5

このブックを見る